見島の概要
見島って?
釣りやバードウォッチング、ダイビングなど全国の離島好きの方は特に必見です!
見島の歴史
見島の生い立ち
2200万年前~1500万年前にアジア大陸が割れて、日本列島がいまの場所に移動してきました。そして、移動してきた大陸の一部と大陸に間に日本海の原型がつくられました日本海の底には、大陸が割れて移動した時にできた傷-割れ目がたくさんありました。大陸の分裂によってうすく引きのばされた地殻の下では、上昇してきたマントルが、融(と)けて玄武岩マグマができました。1200万年~1100万年前、このマグマは、いまの見島の近くにあった割れ目からいきおいよく噴きだしました。このような噴火を「割れ目噴火」といいます。空中に高く噴きあげられたマグマの破片は火山弾や火山灰となって地表に降りそそぎ、地表に流れ出した大量のマグマは玄武岩やピクライト質玄武岩の溶岩台地をつくりました。820万年前に玄武岩や安山岩マグマが貫入し、見島の火山活動は終わりました。
周りの海に広がる溶岩台地
見島は玄武岩でできた島ですが、実は見島のまわりの海のなかには見島と同じ玄武岩でできた大きな溶岩台地が広がっています。玄武岩マグマは粘り気が小さいので、長い距離を川のように流れるので大きな溶岩台地をつくることができるのです。この溶岩台地はいまから1200万年前から1100万年前のあいだにできたものです。大津郡の向津具(むかつく)半島でも同じ時期に玄武岩の溶岩台地ができました。
観音崎で1200万年前の見島の噴火の様子が分かる?!
地下にマグマがたまっている場所があり、マグマだまりとよばれています。マグマだまりはボールのような形をしていると考えられています。マグマの中には、水などのガスが入っています。ガスは軽いのでマグマだまりの上の方にあつまり、だんだん圧力が高くなります。やがてマグマ溜りの天井がこわされ、そこからガスとマグマが噴き出し大噴火をおこしました。見島の近くには大陸が割れて日本海ができたときの傷(割れ目)がのこっており、その割れ目を使ってマグマが大量にふきだしました。マグマのかけらは空中で回転して、きれいな形の火山弾ができました。マグマの中のガスがなくなると、大規模な噴火はなくなり割れ目から溶岩があふれはじめました。この溶岩は、粘りけが小さかったのでサラサラと遠くまでながれ大きな溶岩台地をつくりました。このように観音崎では、ひとつのマグマ溜りが噴火をはじめてから、からっぽになるまでのようすを見ることができるのです。
国境離島「見島」ならではのもの!
見島牛(国指定天然記念物)
見島は国指定天然記念物「見島牛」の産地としても有名です。和牛の原型と言われる牛で、室町時代に朝鮮半島から渡来した当時の姿をそのままに伝えています。成長はおそく3歳で繁殖年齢に達し、7~8歳まで成長し続けます。雌は20歳以上になってもなお分娩するものもいます。近年では、霜降りでとてもおいしい肉質をもつ牛として、TVや雑誌などでも紹介され脚光をあびています。
カメ生息地 (国指定天然記念物)
見島はかつて本州の一部で、第4紀(1万~200万年前)に日本海陥没によって島になりました。そのため、本土と45㎞も離れていても本土と同じような生き物がみられます。イシガメ、クサガメもそのひとつで、「片くの池(大池)」にはこれらのカメが生息しているので国指定天然記念物に指定されました。
讃岐坊の釣鐘(市指定文化財)
大陸に近い島ということもあり、朝鮮の歴史書「海東諸国記」「李朝実録」には、見島の豪族、藤原貞成が貿易をおこなっていたことが記されています。]岐坊の釣鐘には、1413年(室町時代 応永20)に島の豪族、山田弘貞が寄進したということが刻まれています。朝鮮との貿易で栄えた当時の見島の文化の高さを示す貴重な資料として、市指定定有形文化財に指定されています。
見島神社 鰐口(市指定文化財)
青銅製で直径39cm、表面に陰刻の銘文があります。銘文によると南北朝時代(1331~1391年)に当桙フ地頭と推定される永裕が寄進したとあります。優れた工芸品であり、讃岐坊の釣鐘と並び当時の見島の文化の高さを物語る貴重な資料として、市指定有形文化財に指定されています。現在は、別の場所に保管されており、見学はできません。
露兵漂着記念碑
明治38年(1905)5月、見島沖で日本海海戦が行われ、撃沈されたロシアのバルチック艦隊の乗員55名(内重傷者10名)がボートで宇津海岸に漂着しました。島民は同じ海に生きる者として、治療と救護に尽くしました。 当時は共同負債を抱え苦しい生活をしていましたが、島民でも食べられない白米のおにぎりなどを食べさせたという記録も残っています。
見島還債碑
明治7~16年(1874~1883)まで干ばつ、冷害等に見舞われ、島民は生存すら困難な状態に陥りました。そのため、萩の商人や銀行から現在の金額で50億円もの借金をしてしまい、担保の家や田など全てを手放す寸前となりました。しかし、窮状を知った県知事が派遣した役人の下、13年間、一切の娯楽(行事、酒、鬼ようず作り)を禁止、節約し、島民の共同一致の努力で全ての負債を返しました。
鬼ようず
見島では古くから、長男が誕生すると無事の成長を祈るため、最初の正月に畳6~8枚の大凧をあげる風習があります。凧が高く揚がれば揚がるほど出世すると言われ、その長男の将来と家の繁栄を願ったものと言われています。この風習は、現在でも見島に残っており、見島での新春の風物詩となっています。
毎年10月頃には全国凧揚げ大会in見島が開催されています。
笠石
ナバ石とも呼ばれ、男性シンボルを表したもので、原始宗教の遺物とみられています。この笠石の笠の上に小石を乗せて拝むと子宝に恵まれると言われています。島内には7つあったとされていますが、形をとどめているものは駐在所横や発電所横などで見ることができます。
おしあいの館
毎年7月28日の住吉神ミ例祭で行われていた勇壮な和船競漕の船「金波」「銀波」が展示してあります。「住吉神社例祭記録」には明治4年(1871)に「おしあい」が行われたと残っています。当時の「おしあい」は、競争意識が強く船頭の裁量でこぎ手が選ばれていたそうです。